取材日:令和5年11月24日
1959年(昭和34年)玉野市出身。第二日比小学校、日比中学校、玉野高校を卒業後、大阪デザイナー学院イラスト科へ進学。同専門学校卒業後、ヨーロッパ10か国で研修し、1981年(昭和56年)大阪でフリーのイラストレーターとして独立。主にエアーブラシによるリアルイラストを制作。1992年(平成4年)マッキントッシュコンピューターによるCGイラスト制作を開始。1993年(平成5年)アトリエを岡山へ移転。2011年(平成23年)から2013年(平成25年)3月まで倉敷芸術科学大学非常勤講師を務める。2014年(平成26年)から玉野市で『夢のいきもの』企画開始。現在も年に1回継続中。
今まで、色々な種類のある総称「絵描き」をしてきました。
画家の場合は、画材の違い(日本画、油絵、水墨画、水彩画、テンペラ画など)で枠組みがあるようですが、イラストレーターになると、商業ポスターやマットペイント(背景画)、キャラクターデザイン、テクニカル工業イラスト、建築パース、エディトリアル(書籍表紙・挿絵)、ポップ、取扱説明書の線画などを描いています。
そして、今流行しているソーシャルゲームやカードゲーム、漫画家、アニメーターの仕事も含め、多種多彩の絵描き業種をほぼすべて経験しました。
若いときは、生活するため、自分の経験値に見合った絵仕事を選び、その時代を過ごしてきました。どの分野も絵を描くことに変わりはなく、そのすべての経験が今に活きています。
今は念願のオリジナルの絵を主流に、画家でもない、イラストレーターでもない、不思議であいまいなところにいます。これは絵描きとして私の老後の理想の立ち位置なんです。
私の画風スタイルは、子どもを育てるかのように、自分流で一筆一筆丹念に想いを描き込み育てる感覚です。
どちらも認定資格はなく、プロの定義もあいまいなので、フリーターのような感じです。覚悟を持ってこの職を選ぶことが大事です。すべて本人の自己責任になりますが、枠組みや常識に縛られずに自由に絵描きを楽しめると良いですね。
実は、大学受験に失敗しました。そして社会人になれる気がしなくて落ちこぼれでした。
この大きな挫折を経験し、唯一の望みであったのが絵です。社会での自立手段を考えた時に、この絵でやっていくしかないと、「背水の陣」の思いで絵描き人生が始まりました。
若いころは、絵を描くのが苦痛で苦痛で、いつも泣きそうな時がありました。しかし、親に「絵でやっていく」と威勢良く言って、大阪へ出てきたこともあり、生活するために続けなくてはなりませんでした。
「自分にはこれしかない」とギリギリの生活の中、右往左往・紆余曲折・地べたをはいずり回る感覚でとにかく続けた結果、いつの間にか「絵を描くのが好き」になっていました。こんなにも絵を描くことに夢中になるとは自分でも思いませんでした。
「好きなことを仕事にできていいね」と言われて素直に「そうだ」と言えるようになったのは、40代後半ごろのことです。
友だちのデザイナーにフォトショップ(写真や画像の加工・色の調整などを行えるツール)で絵が描けるよと言われたのがデジタルアートを描き始めたきっかけでした。
当時、フォトショップのマニュアルは英語で書かれたものしかなく、それを使って絵を描いている人もいませんでした。自分で1つ1つのツールを使ってみながらマウスで絵を描いてみて、「こういう絵が描けます」と見せたところ、依頼が入ってくるようになりました。
当時はパソコンで絵を描いても出力するすべがなく、印刷もきれいにできなかったので工夫して納品していましたね。
絵や音楽の芸術は生活必需品ではないと思われがちですが、人にとって芸術こそ生活必需品だと思います。生きていると辛いことや悲しいこともありますが、絵があるから、音楽があるから救われた人も多いと思います。
また、「名」を売ること、「名声」にこだわっていると、本当に大事なことを見失うことがあります。メディアを使って「名」を売ろうとすると、一時は良いかもしれませんが、必ず落ち込む時期が来ます。その「名」が逆に自分の足かせになって「名ばかり」の作家になってしまうかもしれません。
そのため、私は、真逆な生き方をしています。
売り込み営業はしたことがなく、仕事(作品)が仕事を産みました。私の営業マンは、その都度描いている絵でした。
大切にしているのは「良い絵を世に出す」ことなので、依頼されても勇気を持って断ることもあります。書き上げたものが実力になるからです。売り込み営業をすると、相手の要望に沿った時に、時間がなかったり、予算がなかったりなどで、良い絵をお渡しできないことがあるからです。良い絵が出せないと次の仕事につながらないかもしれません。
今は自然と身についたオリジナルの絵にこだわって仕事を引き受けています。作家にとって一番大事なものは「名」ではなく「作品」ですから。
昔、アナログ時代の話ですが、「イラスト年鑑」というイラストレーターの作品集がありました。かなり分厚い本でしたが、1ページ目から最後のページまでのイラストタッチ(スーパーリアルからポップまで)をすべて描けるように鍛えられました。
そのため、「内尾は1人で200人分の仕事ができる」と言われるようになりましたが、どんどん個性を失っていった時期でもありました。
下積みがあるからこそ、実力が高められましたが、この経験をきっかけに自分の目指す絵描き像を意識するようになりました。
王子が岳のてっぺんの岩の上です。
人は誰でも一度や二度、人生に迷い、どうしようもなく嫌になることもあると思います。
都会にいると、どんどん人の常識に感化されて、周囲に合わせることで、生活習慣ができあがっていくことがあります。そうしていると、いつの間にか大勢の人と同化してしまい、自分が溶けてなくなりそうで怖いなと思い、30数年前に都会の仕事を捨てて、大きな覚悟を持って故郷である玉野に帰ってきました。
予想に反して、この田舎まちで世界のメジャーな仕事ができるようになったという経験もありましたが、40歳のころ、映画・ファイナルファンタジーの背景画制作に参加したのをきっかけに、やはり、チームプレーでは自由がきかないと実感して精神的には再び素人の域に戻ろうと決めました。絵の大好きな初老の素人です。
好きな絵を描いて、それを買っていただくという需要と供給の単純なことです。好きだからやめられない。この感情がどこまで続いていくか見物です。
その人に才能があったとしても、本人に「本気」がなければ宝の持ち腐れです。
反対に、少し能力が足りなくても、「本気度」があればそこを補充してくれると思います。さらに、その本気度が才能ある人以上の成果を収めるようになるのではないでしょうか。実際、私の昔ながらの業界仲間にはそういう人が多いです。今も最前線で活躍しています。
絵でも音楽でも「アマチュアだし」「駆け出しだし」「学生だし」「これくらいでいっか」と思った時点で、天井ができてしまいます。また、「やりたいけど時間がない」というのも、自分にとって、それほど情熱を持って打ち込めるものじゃないということだと思います。何かを犠牲にしても自ら時間を作ることが大切です。そして、「なりたい」ではなく「なる」つもりの本気度がないとなれないと思います。
ベテランになっても、いつまで経っても苦しみは何ら変わることはありません。でも、苦しみを苦しみと思わなくなります。自分だけの当たり前です。
大変だから仕事になります。自分ができない「大変さ」を人から買って、人ができない「大変さ」を売る、これが社会人の基本です。
「大変だ」が喜びの言葉に変わると良いですね。